2018年04月02日

見た目がとおる

 見えないものを見えるもので制御していこうってのはナンセンスなんだけど、それを何とかやっていこうとしてるのが現代社会で。

 症状に名前をつけたり、それを告げられて(なぜか)安心するのもその一つ。

 告げられて「俺もついに」みたいなね、「一回戦から強豪校かよー」的な不戦敗気分になったりもするんだから、いいことばかりじゃないっていうか、良くて半分なんだけど。

 お互いが半分ずつ楽になれれば割といいですよねってとこか。

 伝統を笠に着ただけの儀式の存在意義もまた、そのくらいのもんなのかもしれない。

 ただね。

 霊障を儀式に委ねる場合の、双方が本質を見ようとしない、その合意の罪深さは凄まじいなと。

 闇雲に「スーツ着てこい」、「スーツも着ないで何様だ」みたいなおっさんばりの、外見だけで片づけようとする感じが凄いっす。その人が本質を発揮できる服装かどうかの方が重要なのに、俺様に会うからにはそれなりの服装でまず覚悟を見せてもらおうみたいなね、へりくだってやって来るかどうかで満足しようとする感じがもう、見えないものを見る力がゼロなんですマンかお前は。

 見えないものを見る程度に差があって、その優越感と劣等感を恐れたんだな世界は、と思う。ちょいちょい思う。

 それはまあ、見えるふりをしてる悪い奴がいて、悪い奴だから権力を握ろう、拡大しようとしたからっていうのもあるんだろうけどさ。

 「スーツは合理的じゃない」っていう時代になってきたのはちょっといいけど、中身を見ましょうってのとはまた別の話なんだよな。
posted by 篠田 青 at 02:03| Comment(0) | 精神世界