2018年02月28日

厄介

 いわゆる「スピリチュアル」とかその周辺の話に関心がなさそうな人たちでも、「厄」って言葉は割と気軽に使う。「厄がついてる」とか「厄が落ちた」とか、場合によっては「厄を持って行ってくれた」とかね。

 「運」とか「厄」は使うのに「霊」は頑なに信じないみたいな人って多いけど、バランス悪いなって思わないのかな。思わないか! 思わないから平気で偏るのか! まあいいか、そんな人たちの話は!

 いいんだけどさ。

 厄とか運とか、アレルギーを呼ばないようなね、普遍的な言い回しとして定着してるでしょ。こういう用語って歪んじゃうのよね。歪むから定着できるんだけど。

 厄はくっついてくるんじゃくって、自分で引き寄せるものなのよね。ついてるとかついてないとか、誰かのせいみたいな言い方するでしょ、みんな。違うんだよね。「巣箱」と同じで、自分のせいなわけ。

 だから、神社とかお寺でお祓いをしてもらっても落ちない。彼らの商売を邪魔する気はないけど、僕が皆さんの幸せを願ってみてもいいでしょ(笑)。

 ちょっとこう、スピリチュアリストというか、神秘家というかね。「自分よりもそういうことに関心のある人が周りにいない」くらいの人がさ、自信をもって「厄」を語ったりするのよ。

 そういう人はね、ブランドが好き。有名な神社とか有名なお寺、有名な神様を引用しては、もっともらしい顔でもっともらしいことを言って、今日も一日、クラスで一番のスピリチュアリストみたいな満足顔でお過ごしでいらっしゃる。

 やめてくんねえかなーって思うけど、そういう人がこれ読んでも「あっ、これは自分のことだ!」って思わないからね。あー厄介厄介。
posted by 篠田 青 at 23:51| Comment(0) | 精神世界

2018年02月27日

引っ越し先ですべきこと

 ぼちぼち三月、引っ越しシーズンであります。

 スピリチュアル的に「新居に運を呼び込むためには?」みたいなネタがありがたがられる季節であります。

 というわけで僕もですね、とりあえずこれだけはやっておけ的なことをですね、書こうかなと。

 ええ、まず一点目。

 ねえよ!

 むしろすんな、盛り塩とか。

 「儀式ってあるのかな」と思うとね、ルールを意識するでしょ。知らなきゃいけないんじゃないか、守らないと祟られるんじゃないかっていう恐れが生まれる。

 その方がよっぽど危ない。

 儀式格式ってのはね、人を不安にさせないためにあるはずなのに、何かルールの奴隷みたいなね、本人はルールの使者みたいな顔しててそれがまたタチが悪いんだけどさ。スピリチュアルの作法を教えます守ってください厄はきちんと祓ってください二礼二拍手一礼を守らない奴は人間じゃありませんので死んでくださいみたいなね。

 まあ、不安を煽ってこその商売みたいなとこもあるんでしょうけど。

 現代社会の暮らしの中で、どうやって風通し良く、明るく生きていくか。その辺を支えてくれる部屋ってどうやって作るのか。これはもう、本当に個人個人で違ってくるし、そこと向き合う、自分を知ることの方がよっぽど大事だから。

 まあ、それを知りたくない人ばっかりなんだけどね! わははははは。
posted by 篠田 青 at 01:46| Comment(0) | 精神世界

2018年02月26日

できぬかな 2

 ストローを個包装から出すたびに、「僕より下手な人なんていないんじゃないか」と思う。
posted by 篠田 青 at 23:55| Comment(0) | 日々

2018年02月25日

日常こわい 4

 つづき。

 「自分を変えれば治る」よりも、「治らない」を受け入れる方が楽だという構造があって、病気やケガはそこに上手に寄生する。

 寄生しやすい、定着しやすい形を無意識のうちに提供する癖を、人の心はもっている。

 それを知ってしまうこと、そういう自分の陰を知ることは怖い。「自分と向き合う」というフレーズは量産されてるけど、実際に向き合える人なんかほとんどいない。

 自分を変えたくはないからと、病院で物理的に診断されることを望んでしまう。

 病名を知らされることを恐れていると思っているけど、実際はそれよりも怖いこと、「性格や生き方を変えなければならないことへの恐れ」を隠している。

 それが陰になる。陰っていうのは、恐れや嘘、隠し事のこと。

 自分が見たくないものを、他人に見られたいわけがない。物理的な歪みと、心の歪みでは醜さが違うっていうのかな。

 自分にさえも隠したい恐れこそ、病気やケガの大好物。

 病気やケガ、何だかよく分からない不調っていうのは、全部霊障なんだよね。

 霊障っていうといかにもオカルトっぽいけど、心理学が定義する心とはまた別のところにあるもの、魂だとか念だとか、そういうものだと思えばいい。「霊=生きてないやつ」じゃなくって。死霊とか生き霊とか言うでしょ。まあ、みんなにあるっていうか、みんな持ってるのよ、霊は。

 共有するのが難しいというか、実感するにも自信が持ちにくいから、物理的なものだけを認めるようになったのよね。その方が簡単だから。

 で、見えないものは存在しないことになっちゃって、見えない人が見える人をバカにするような構造が生まれて、言えないことが増えて、それらがみーんな陰になる。

 本人が光を当てさえすれば、陰は陰じゃなくなるんだけどね。

 その勇気を持ってみようかなと、とりあえずそれだけでも思ってくれれば、僕が力になれますよっていうお話。
posted by 篠田 青 at 01:23| Comment(0) | 病は仁から

2018年02月24日

日常こわい 3

 はい、昨日のつづき。

 病気やケガというのは結果であって、原因は比較的近く、症状と直結したようなシンプルなところにある、って感じで考える方が楽なんだよね。物理的に考える方が。怖くないっていえばいいのかな。

 生活習慣病とか、職業病とかね。「日常生活に気をつけよう」と思いやすい。

 あるいは、「こういう日常なんだから仕方がない」と受け入れやすい。

 心の習慣、考え方や個人個人の人間関係に根ざしたバランス感覚。そういうものが原因だと考えるのはちょっとしんどい。

 職業が原因だと考えれば、むしろちょっとした誇らしさも生まれるけど、職場が原因だと考えなきゃいけないのなら辛い。

 日常を変えるのは大変だから。真面目な人ほど、続ける方が簡単だっていう感覚を持ってる。

 日常と性格は隣り合わせで、ずっと並んで進んでいく。日常が急げば性格も急ぎ、性格が曲がれば日常も曲がる。

 日常を変えるってのは、性格を変えることだったりする。

 「こういう性格だから」、「これはもう性格だから」っていう言い方はありふれたものだと、誰もが感じるはず。

 基本的に変える気がない。変わらないものだと思っている。

 大前提。

 まだつづく。
posted by 篠田 青 at 00:45| Comment(0) | 病は仁から