2017年07月13日

二日目のカレー

 カレーじゃなくって、「二日目のおでん」でもいいんですけどね。

「二日目の」っていう時点で、まあ大抵の人にとって「家で作った」って意味になるでしょう。一般家庭の平均としてカレーが何日持つかは分からないけど、三日目を迎えることが多ければ「うちのカレー」は二日目以降のイメージが強くなる。それがそのまま「うちのカレーの味」として記憶され、語られていくという。

 まあ、そういうつまらない話をしてもしょうがない。

 カレーっていうのは油脂やスパイスを含めると、結構な数の材料からできてるわけです。それを肉を炒めて、野菜を炒めて、水入れてっていう鍋に投入して、パッケージに書かれた時間を意識しながら煮込む。

 色んなところからやってきた人たちが一つの鍋で、一つの料理になる。これは材料たちにとって、結構大変なことなんですな。「書かれた通りにしときゃカレーになるだろう」とか、「カレーなんて誰が作っても同じ味」とか、そんな簡単なことじゃない。

 タマネギの立場になってみましょうか。切られて形が変わる。炒められるときに熱と油、先にいた牛肉やら豚肉やらと一つになる。これだけでも結構な変化を求められるのに、さらに水と一体化することを求められ、炒められたときとはまた別の油脂、スパイス、素敵なものいーっぱいと仲良くならなきゃいけない。

 材料にはそれぞれが持つエネルギーやリズム、まあざっくり言えば「気」があって、それぞれに相性もあるわけです。みんなが溶け合って一つの料理、新しいエネルギーに変化するには、それなりに時間がかかる。

 みんなに楽しみにされてる間、材料たちはその愛情もエネルギーとして受け取って、じっくりおいしく、優しい一つのカレーになっていくわけです。

「やった、明日もカレーがある!」っていう思いはその家、家族一人ひとりの形があって、それもちゃーんと材料になる。母が子ににぎるおにぎりと同じように、うちのカレー、二日目のカレーは奥深く、豊かなおいしさなのであります。
posted by 篠田 青 at 20:54| Comment(0) | 食べもの

2017年07月12日

パワースポット

 一時ほど聞かなくなったような気もしますが、「何それ?」と聞き返されるような感覚もないので、定着したということかもしれません。パワースポット。

 そこには良いエネルギーが満ちており、行けば誰もが機械の身体をもらえる……間違えた、えっと元気になったり、運が良くなったりするというね。

「行けば誰もが」なんて言うもんだから、誰も彼もが行くようになる。「何か知らんけど御利益があるらしいから」、御利益御利益きゃっきゃっきゃっ。イケメンイケメンきゃっきゃっきゃっ。

 御利益と 漢字で書くと 浅ましい

 御利益を「いいこと」に置き換えてみますかね。いいことってのは、人によって、もしくはその人の情況によって異なるわけです。異なる需要、異なる欲求を満たす魔法の言葉、「いいこと」。

 霊感は誰にでもあるけど、それをどのように使うか、使っているかが大事であって。そういう部分、個人の想いの方向、何を大事に生きているかみたいなところと、その場所のエネルギーとの相性が果たしてどうか。

 相性が良ければ、晴れてそこがその人のパワースポットとなる。

 いい医者だって聞いたからわざわざ来てやったのに、なんだとんでもねえヤブ医者じゃねえか、みたいなね。「ハードル上がる」とか言うけど、聞く方の聞き方だってあるし、効く方の効き方だってある。あなたのパワースポット、お友達のパワースポット。共有できなきゃお友達じゃないとか、そういうのとは別の話。

 そういう細かいこと考えるのがめんどくさいから、誰にでもある程度、だいたい御利益があるみたいなのが「有名なパワースポット」になるんだろうけど。誰も彼もが行くようになれば、見えるゴミ、見えないゴミが結構増えて、そのゴミの方に引っ張られて具合悪くなる、なんてこともあるんでね。

 相性のいいパワースポットってのはまあ、意外と静かなもんです。
posted by 篠田 青 at 23:14| Comment(0) | 精神世界

2017年07月11日

手を切る、足を洗う

 手を痛める、足を痛める。怪我じゃなくっても、水虫とか湿疹とか、何かしびれるとか痛みが走るとか、今日もどこかで誰かの手足に、色んな不調が出ていることでしょう。

 よく使うところだから、物理的なトラブルだと捉えやすい手足。長引いている痛みや不調なんかは「古傷」なんて言って、「仕方がない」って感じで処理されちゃう。定着している言い回しだと、何かその、「世の中にはそういうことがあるんだよ」みたいな受け入れられ方をする。周りも本人も、なーんかすんなり受け入れる。

 そういう症例を見ると僕なんかはもう、すぐに「いやいやいやいや、ちょっと待ってよ」と思っちゃうけど、当の本人はすっかり切腹前の武士みたいな穏やかさで受け入れ顔。何なのその、達観してりゃいい、場合によってはかっこいいでしょ大人でしょみたいな感じは。

 じゃあいいよ、これならどうだ。

 古くからの言い回しには、「手を切る」とか「足を洗う」っていうのもありますわね。縁を切らなきゃいけない人間だとか、やめなきゃいけない習慣がある。この習慣ってのが厄介で、本人からすると「仕方ない」とか「でもまあ、そういう訳にもいかない」みたいなね。やめる気がないし、悪いことだとも思ってないんだね。

 やめりゃいいって言われたこともやめないで、「(この症状とは)付き合っていくしかないのかなーと思ってます」なんてね、真面目な顔して言っちゃう人が本当に多い。そういうおかしな真面目さと、「古傷」だとか「慢性」だとか、ぼんやりしてるくせに、いやぼんやりしてるからこそ適用範囲が妙に広くて、大義名分みたいになっちゃってる言い回しってのはもう、腐れ縁みたいな相性の良さでね。

 変に真面目な人だから、「長い付き合い」を大事にする。手を切ったり、足を洗ったりっていうのが苦手で、古傷だの慢性だのともう、どんどんどんどん仲良くなっちゃう。病院にもちゃんと通うしね、そういう人は。真面目の使い方をちょこーっと変えてやればいいんだけどね。
posted by 篠田 青 at 22:27| Comment(0) | 病気

2017年07月10日

水虫

 水虫になると、「原因は白癬菌ですから、殺菌しつつ足を清潔にしましょう」というのがまあ、一般的な話。

 で、感染源はどこでしょうね、バスマットを共有していますかとか、玄関マットはお使いですかとか、そんな展開になります。

 そうするとこう、家族間で犯人捜しが始まったりしてね。「お父さんの後にバスマット使っちゃ駄目よヒソヒソヒソ」みたいな空気になってくる。いやこれ、別にお父さんじゃなくってもいいし、「水虫といえばお父さん」的なイメージのせいで女の人が言いにくくなって、密室的に広まっていくという、実はこれが水虫の恐ろしいところなんだけど。

 水虫のことをジメジメと扱うからいけないんで、カラッとオープンに扱えば簡単に治ったりする。今の人たちは真面目だから、みんな真面目に検索して真面目に治療しようと考えるんだけど、家や家族間の風通しを良くすることの方がよっぽど大事なんです。

 お医者さんに言われた通りにしてるのに治りが悪いなーっていうときは、そんなことも気にしてみると面白くなりますよ。
posted by 篠田 青 at 21:00| Comment(0) | 病気

2017年07月08日

霊感あるんですよー

「私、霊感とか全然なくって」って言う人はいいんです。

「私、霊感あるんですよ」とか「友達に霊感のある人がいてー」って言われると、あーあ、言っちゃったなと思う。

 霊感は誰にでもあるし、無意識に使ってるんですよね。問題はそれをどう捉えるか、自覚的に用いるならどう磨いたり、研ぎ澄ませていくのかが大事で。

 だから「私、霊感が強いんですよ」とか「霊感って言っていいのか分からないんですけど、そういうのちょっとあって」って言われると、うんうんそれで、と次を聞きたくなる。いや、顔が好みかどうかってだけかもしれないけど。

「霊感がある」だと持つか持たざるかの世界になっちゃって、同じ感覚を持つ仲間を探しにいっちゃう。周りにはいない、あたしだけだどうしよう、えっ嘘やだほんとですかうわー初めてです霊感ある人に会えたのー嬉しいなーこういう話できる人いなくってー。

 同じものでも違う形で捉えたりする、霊感っていうのはそういうものっていうか、霊感じゃなくっても個人の感覚っていうのはそういうものなんだけど、共有を強調したくて「見えたよね」を揃えにいっちゃう。

「あの人、手から金粉出てたから。」
「あーっ、出てたよね! あたしも見た!」

「霊感なんてねえよバカバカしい、それよりちょっとパチンコ代をくれ」的な周囲の無理解も手伝って、女は(なぜ女なんだ男でもいいじゃないか)「霊感ある人たちのコミュニティ」に居場所を求めるようになる。

 そういう人たちが「スピリチュアル」という言葉を変な感じに孤立させて、ウキウキ気分で「普通の会話ができない人たち」になっていく。孤独が嫌で仲間を探してたはずのに、気づかないまま別の孤独にはまってしまうっていうね。人生って不思議ね残酷よねー。

 まあ何でもいいんだけど、使えたはずの言葉が使いにくくなっちゃうってのはね、ちょっと不便だなー。
posted by 篠田 青 at 22:34| Comment(0) | 精神世界